言葉「で」橋をかけ、言葉「に」橋をかける:
高橋喜代史の実践における「芸術」と「言葉」の関係について
山本浩貴(金沢美術工芸大学・講師)
2021年9月11日から2022年1月16日にかけて、本郷新記念札幌彫刻美術館で「高橋喜代史展 言葉は橋をかける」
が開催された。本来の会期は2021年12月5日までだったが、新型コロナウイルス感染症に伴う開館状況を鑑みて
延期された。「第3回本郷新記念札幌彫刻賞受賞記念」と冠された同展は、同賞受賞者の高橋喜代史が副賞とし
て与えられた機会である。
高橋喜代史は北海道生まれのアーティストで、現在は札幌を拠点に制作活動を展開する。本郷新記念札幌彫刻賞
の受賞作は、《ザブーン》(2021)と題された彫刻作品である。数多くのパブリック・アートを手がけた本郷の
業績を彷彿とさせるが、同作は2024年1月まで市内の大通交流拠点地下広場に設置される予定であるという。「言
葉は橋をかける」では、高橋が2016年から2021年のあいだに制作した総計17点の作品が陳列された。同展に合わせ
て刊行された図録には、彼がアーティストとしてキャリアを開始した2000年代半ばに制作された作品も紹介されて
いる。本レビューは主に図録を参考に、「ソーシャル・プラクティス」(現代美術における社会的実践)としての
高橋喜代史の芸術実践における核心に迫る。導きの糸となるのは、「言葉」と「(視覚)芸術」の関係である。
高橋喜代史という作家は、「マンガと現代アートのハイブリッドな混成体(アマルガム)」として理解できる。札
幌の専門学校でイラストを学んだ高橋は、自然とマンガ家となることを志望するようになったという。卒業後しば
らく経ち(そのあいだ、彼は自作のマンガで様々な賞に輝いている)、彼は同じく札幌のリーセントアートスクー
ル(現CIAアートスクール)でイギリスの美大帰りの講師を通じてヨーロッパのコンテンポラリー・アートに触れた。
期せずして2000年代イギリスを席巻したネオ・コンセプチュアリズム——代表作家として、セス・プライスやマーテ
ィン・クリードの名を挙げることができる——の旋風にリアルタイムで接することになった高橋は、それを機にアー
ティストとしての道のりを歩み始める。
ユニークな経歴から演繹される高橋の異種混交的パーソナリティは、先述の《ザブーン》や2007年作の《ドーン》
(この作品は、2019年に《ドーン[900A]》としてリメイクされた)などの作品に顕現する。いずれも日本語語彙
に豊富に見られるオノマトペ(擬音語・擬態語)にマンガ風の視覚的デフォルメを加え、それらの文字を立体物と
して作品化した。
《BATMAN》(2004)や《サイコガン》(2007)などの初期作には、日本の伝統的な文字芸術である「書」からの
影響を看取できる。より厳密に言えば、「書」から少なからぬ影響を受けて発展したフランツ・クラインの抽象表現
主義絵画やジョルジュ・マチューのアクション・ペインティングからの逆輸入的影響と言えよう。これらの作品には、
文字と図像の境界・臨界を探ることへの関心が明示的に示されている。この関心は、「言葉は橋をかける」展にも出
品された近作《BBQ STOVE》(2021)にも継承されている。そして、そのために適切なプロセスを実験的な仕方で発
見することが彼に課されたミッションだ。
上記の脈絡を考慮すると、作家・高橋喜代史の「芸術」において「言葉」が不可欠な要素であることに異論の余地は
ないだろう。展覧会タイトルを見れば、高橋自身もそのことに自覚的であるのは明らかだ。だが批評的にもっとも重
要な作業は、そこにおいて「芸術」と「言葉」がどのような関係性を切り結んでいるかを分節化することである。な
お、本稿では「芸術(art)」という言葉を特に「視覚芸術(visual art)」に限定して議論を敷衍する。
「言葉」は、「芸術」に触知可能なかたちと明瞭なメッセージを付与する。たとえば、高橋が2007年に発表した
《SIGNAL》はそのことをはっきりと例証する。約9分間の映像作品には、大きなプラカード(正確には、連結された
3つプラカード)を掲げて人通りの多い交差点に立つ作家自身が登場する。それらのプラカードには、それぞれ日本語、
英語、アラビア語で「助けて!」と書かれている。
この作品がアプローチしよう試みる社会的イシューは明白であり、それは内戦の影響で大量に出現した「シリア難民」
の問題である。ゆえに作品内で日本語と英語に加えて、シリアの公用語であるアラビア語が用いられる。あらかじめ
述べておくと、この問題は遠く離れた「対岸の火事」ではない。すでに1981年には難民条約に加入しているにもかか
わらず、日本では難民の認定基準が非常に厳しい。そのためこの国の難民受け入れ数は、(その理念に反して)毎年
きわめて少ないのだ。
ここには、火急の政治的課題にアートを通じて取り組もうとする高橋の意図が明瞭に出ている。そして彼の「芸術」
実践のなかで、「言葉」はそれに意義と方向性を与える役割を担う。《SIGNAL》において明確な意味内容をもつ「言
葉」なしには、高橋の「芸術」行為は奇を衒ったパフォーマンスとして誤解(さらに悪ければ、無視)されるリスクを
伴う。そこに掲げられた「言葉」は、その「芸術」が内包するメッセージや社会批評性を担保することに寄与している
——しかも、その特異な視覚的強度を維持したまま。
《SIGNAL》に対し、「代弁」という観点から批評的に切り込むことは可能だ。はたして、(この問題に関して、権力関
係では強者の立場にいる)日本人の高橋がシリア難民に「代わって話す」ことはできるのか。彼/彼女たち自身の「声」
はどこにあるのか。強者が先んじて声を上げることは、彼/彼女たちの声を奪ってしまうことにならないか。これらの
疑問を提起する余地はある(と少なくとも筆者は考える)。
だが同時に、高橋自身はこれらの論点に自覚的だとも思う。2021年の映像インスタレーション《言葉をせおう》が、そ
のことを示唆する。同作では、「言葉」と「芸術」をめぐる高橋の思考が明示される。
映像には、「人はみな それぞれのカンバンをせおう」と大書きされた巨大看板を背負って一本道を歩き続ける作家の姿
が記録されている。よろよろと前進する姿は、けっして「格好の良い」とは形容できない。インスタレーションの傍らに
は、実際に使用された看板が並置される。この作品でも、高橋の「芸術」行為は「言葉」により明確化され下支えされる。
その「文字通り性」は、同作に独特のユーモアを付加している。
だが表面上のユーモラスさとは裏腹に、《言葉をせおう》には芸術家としての高橋が「言葉」と向き合う姿勢が(真面目
すぎるほど)決然と表明されている。自ら発した言葉は、その人を表す「カンバン」となる。ゆえに、誰もが責任をもっ
て言葉を引き受けなくてはならない。そのような意識だ。ここには、(先述した「代弁」の問題を含め)「言葉」によっ
て社会・政治問題に迫る「芸術」がはらむリスクから目を背けずに向き合おうとする高橋の決意が見て取れる。そうした
彼の態度は、SNSなどを通じて匿名の無責任な言葉が跋扈する現代社会に対しても重大な問題提起を投げかける。
最後に、重要な点として高橋の実践における「芸術」と「言葉」の相補性を強調したい。そこでは「芸術」が「言葉」の
力で支えられ、強化されている。と同時に、「芸術」もまた「言葉」の限界を超越する一助となっている。この事実は、
高橋が立脚するフィールドが「なぜ(文学や詩ではなく)芸術か?」という(真っ当な)問いへの応答でもある。
芸術が限界を有するように(このことは芸術至上主義者のみならず、「ソーシャリー・エンゲージド・アート」を肯定的に
論じる人々も共有している考えだろう)、言葉もまたたくさんの制約を抱える。その一例が、言語的コミュニケーションに
見られるナショナルな(国家的)制約である。先ほどの《SIGNAL》に戻れば、アラビア語と日本語と英語を同時に理解で
きる鑑賞者は(特殊なトリリンガル話者を除いて)そう多くない。さらに3ヶ国語が併記されていても、ただ紙に印字され
ているだけでは、「言葉」が伝えようとするメッセージは強度をもたなかっただろう。
公共空間での「芸術」行為がまとうダイナミクスを通じてこそ、《SIGNAL》や《言葉をせおう》における「言葉」が内包す
るメッセージや意義が鑑賞者に強く働きかけてくる。まとめよう。高橋の実践は非常に重層的に構成されている。それは分
断された社会に「芸術」と「言葉」で橋をかける。同時に、「芸術」に「言葉」で橋をかける(補強する)。さらに、「言
葉」にも「芸術」で橋をかける。いずれの要素が欠けても、その核心を把握するには足りない。このように、言葉と芸術の
相補的な関係こそが高橋喜代史の実践の要諦をなしている。
(2022年3月3日)